
江戸時代には常時3000人の学僧が修行していたとされる浄土宗大本山、三縁山
室町時代の明徳4年、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人により創建された増上寺。徳川家の菩提寺となったことが大きな発展のきっかけになりました。
増上寺と家康公との縁については諸説あります。江戸入城の折、門前を通りかかった家康公が源誉存応上人(げんよぞうのうしょうにん)と対面し、人柄や考え方に感銘を受けて菩提寺にしたのが通説です。水を所望したらお湯を出され気が利いていると感心し菩提所にしたという説や、増上寺前で進まなくなった馬から降りた家康公が、源誉存応上人(げんよぞうのうしょうにん)と話してみると三河にある徳川家の菩提寺で修行したことがあると聞き縁を大切にして菩提所にしたという説もあります。
以降、増上寺を師家に徳川家がその檀家になる縁が結ばれました。芝へ移ってからは、東国白旗十八檀林の主座を占め、東国十七国の総録所になって浄土宗京都四本山を圧倒する天下無双の大寺院となりました。

当時、広大だった増上寺の敷地からは、東海道を見下ろし、品川沖やお台場まで眺望できたそうですが、東京大空襲の影響で、徳川家建立の芝増上寺は、壮大な山門と黒門、御成門、大経堂が残るのみとなりました。
灰塵に帰す前の戦前の徳川家霊廟は見事なものだったようで、永井荷風が書いた霊廟という一文には、ヴェルサイユ宮殿に匹敵する壮麗さがあるが如く書かれています

十六羅漢像が安置された清らかで静謐な古寺、青松寺
南郭の漢詩に「万年山上青松を荷い 盤結高く坐に分けて竜に似たり 是珠を抱き更穏に眠るを知り 彩雲飛びて下堂の鐘を送る」と詠われた歴史ある古寺です。慶長五年(1600年)に現在地に移ったことから竜穏寺の名と共に万年山上青松の寺号が詠まれています。
白木造りの釈迦三尊を本尊に、入って左右壁面に着色された十六羅漢像が安置されています。「法往記」には、十六羅漢像は仏勅を受けて永く此の世に住し、衆生を済度する大阿羅漢と記されていて、禅宗の寺々にとって崇拝された存在であったということです。
最近では、仏教ルネッサンス塾-時代を切り拓く-やボーズ・ビー・アンビシャス!!-お坊さんよ、大志を抱け!-を開くなど、現代社会に求められる仏教・僧侶の在り方を模索する意欲的な試みを行っているお寺でもあります。

境内の掲示物から以下に引用します。
(御祭神) 徳川家康公
(創祀沿革) 当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於ける祭儀をなされた寿像である。
元和二年四月十七日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せになり、翌年三月現在地に社殿(安国殿)が創建された。
明治以降 神仏分離令により芝東照宮となった旧社殿は権現造りで国賓になったが先の戦火で焼失した現社殿は昭和四十四年完成する。

公の御神徳による東都を鎮護する代表的なお社です。
徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉 慎重 堪忍 自責 簡素 倹約です。
以って世の中の安寧 世界の平和を希求する厭離穢土欣求浄土の御旗に託しているのです。
(芝東照宮鎮座由来記)